せーなの話

日記と作詞とひとりごと

[ひとりぼっち]について

さびしいなって思う時はたくさんある。

私が特に思ったのは、コロナ禍で大学構内に行けなかった時かな。

入学しても、入学式もできず、オンライン授業。友達なんて到底できるわけない。Twitterから知り合って友達になっている人は多少いたみたいだけど、そんなのレアケースだと思う。

バイトも一回落ちてからはしようとせず、先生方もオンラインでの出席確認方法とかが不安なせいで授業の課題がすごく多くて、授業と課題をして引きこもる生活になっていた。

きっと、私だけじゃないだろう。他にも、孤独な大学1年生はいただろう。でも、私と出会えなかった。だから、お互いに孤独なままになってしまった。

もし、出会えていたら、なにか変わっていたのだろうか。

この詞は、その時に書いたもの、、、ではない。2022年の9月に書いて、今回公開するにあたり多少の推敲をした。

結局、何度も似たような感情を繰り返しているのだなって、自分の作詞を見て思う。っていうのも一回書いたことあるな、スマホのメモで。

 

この詞について。書いたとき、私自身さびしくて仕方なかったんだと思う。でも、もし私と同じようにさびしくて苦しくて死にたい人がいたら、止めたい。だから、無責任だけど、希望を持って生きてほしいって言いたかった。

希望を持っていればいつか叶うかなんて、『私』にはわからない。なぜなら、この詞の中で『私』は既に死んでいるから。死んだ『私』は多分死んだ後に君を知って、君と出会えなかったことを後悔していて、君に同じ思いはしてほしくなくて、この文章を残している。(正確には死んでいるため文章を書いただけで残せてはいない。よって誰にも読まれることはない。)

「泣かないで」と言って寄り添ってくれる人はいない。言う相手さえいない。だから、今もし君がひとりぼっちなら伝えたい。『私』が君のかわりに泣くから、君の『しんどい』を全部もらうから、君は泣かないで。君が泣かなくて済む世界になって。そのためには、君は希望を持って生きていて。君には『私』がいる。いるけど、私はもういないから、君にそう言わせてあげられなくてごめん。

 

なんだか物語っぽくなるけれど、正直、感情的にはノンフィクション。書いた時は、私が私に言い聞かせるような気持ちだった。その時の私から未来の私へ。私は、希望を捨てなかった。捨てきれなかっただけなのかもしれない。今、私はまだひとりぼっちではある。でも、この作詞をした時よりも、孤独ではない。